あれから11年 当時会社員だった僕

東日本大震災から11年が経ちました。


改めて亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、被害に遭われた全ての方に心からお見舞い申し上げます。



少し自分の話をします。(ブログだから基本的に全部僕の話ですが・・・)



あの震災発生時のことは今でも鮮明に覚えています。

僕は当時会社員で本社ビル32階で勤務していました。


パートナー企業との打ち合わせ中に突然気持ちの悪い揺れが発生しました。

耐震のため揺れを流す柳のようにしなるビルの中で、キングファイルが棚から大量に落ち、とても立っていられない状況でした。




当時私の妻は長男を孕っており、大きなお腹を抱えて恵比寿の駅にいました。

震災により電車は停止し、電波輻輳でケータイも私には繋がらない。


ようやく繋がり、私に助けを求めましたが私は迎えに行くことができませんでした。



なぜか



私は当時お客様からの料金を請求・回収部門におりました。

ご存知の通り料金のお支払いが滞れば、利用を停止せざるを得ません。


しかし、この非常事態につき、全ての停止回線を開ける必要がありました。

また各支社への指示を行うべく社内事務連絡を作成等も行いました。


私が一番下っ端でしたので、B1階のコンビニに部内の社員のみんなのために食料を買いに行くこともしました。


33階分の階段を降り、みんなの食糧と飲料水を買い、重い荷物を持って再び32階の自室まで持っていきました。


こうして妻の元へ行くことはできませんでした。

幸いながら妻は近くに偶然友人がいたらしく、車で送ってもらえました。



徹夜して業務にあたり、朝5時に歩いて10Kmの道を帰りました。

シャワーを浴びて、自転車でまた会社に戻り業務にあたりました。



ケータイは確実にライフラインであり、このツールを使って救われる人、安心できる人がいると思ったからです。

本社機能が滞れば支社も麻痺してしまう。

だからこそ妻には申し訳なかったですが、私は休むことなく毎日自転車で往復しました。



暫く日が経ち、当時の上司から「分割請求システムを作れ」と言われました。

罹災された方の生活を考えた時、ケータイの料金をお支払いいただくだけの経済的余裕がないだろうと会社が判断したためです。



理屈はわかっても、どうやってシステムや仕組みを作るか本当に悩みました。

急がなければならない中で、システム部門と料金センターと毎日相談し、なんとか完成しリリースできました。


当時は自分がすごいことをやったんだと自負していましたが、毎年この震災を忘れまいとメディアで流れる当時の映像を見るたびに、現場で救助にあたられていた自衛隊の皆様をはじめ多くの方々の存在に敬意を表するとともに、自分の小ささを痛感します。



僕は国会議員にならせていただきました。

強靭な国づくりを推進する立場になりました。



あの震災を忘れることなく、辛い経験ですがそれを糧として強靭な国土を形成するためにしっかりこれから頑張っていこうと思います。









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